ドキュメンタリー映画「人生フルーツ」を鑑賞して・・

  • 2017.04.20 Thursday
  • 16:18

 

 

 沖縄での公開最終日に、映画「人生フルーツ」を鑑賞して

3日が経ちましたが、目に見えないたくさんの情報を受け取り、

それが徐々に心に浸透していっている感じです。

 

 なぜ、このドキュメンタリー映画に、これほど惹きつけられるのでしょうか・・

 

 この映画のプロデューサーで阿武野勝彦氏は、

「とにかく取材先へ回数多く通え。通えば必ず撮れている。

日常に入り込んでじっと観察し続けろ、とアドバイスした。そうです。

(引用元 http://www.hbf.or.jp/magazine/article/hbf2016_vol6)

 

 何の飾りもない、ありのままの事実だからこそ、

たくさんの情報があって、見る側によって受け取るところが

様々なのだと思います。

私は、映画を見て、修一さんの心の奥に隠された思いを想像し、

胸があつくなりました・・

 

<人生フルーツのあらすじ>

「人生フルーツ」は、愛知県春日井市の「高蔵寺ニュータウン」に暮らす

90歳の建築家、津端修一さん(元広島大学教授、元日本住宅公団)と、
87歳の妻、英子さんの日常生活を綴ったものがたり。

 

*************************************

 

(石村 研二(ライター映画観察者)

別に農的生活を目指さなくてもいい。90歳と87歳から暮らしの本質を学ぶ、

映画『人生フルーツ』より抜粋させていただきました。

http://greenz.jp/2016/12/25/life-is-fruity/               )

 

 1955年、修一さんは創設された日本住宅公団に入社すると、

東京でさまざまな団地の計画にたずさわり、名古屋市の郊外、愛知県春日井市の

 高蔵寺ニュータウンの計画責任者としてこの地にやってきます。

 

 高蔵寺ニュータウンは1959年の伊勢湾台風の被害を受け、低地の住人の移住先

として計画されたものでした。

 

 修一さんはもともとの土地の高台の地形を活かし、町の中に雑木林を残して町の

中を風が通り抜けるようなマスタープランを作りました。

 

 しかし計画が進むに連れて経済が優先され、山を削って谷を埋め、

平らな土地に団地が並ぶいわゆるニュータウンへと変わっていってしまったのです。

 

 津端さん夫婦は1970年に高蔵寺ニュータウンの集合住宅に入居しますが、

その5年後にはニュータウン内に300坪の土地を購入し、今も暮らす家を建てます。

修一さんは思うような町を作れなかったことを残念に思いながら、「一人一人でも

里山を取り戻すことが出来るか実験する」ためここで暮らし続けることを決意したのです。

 

(抜粋ここまで)

***************************************

 

 津端修一さんは、映画を表面的に見ると、いつもニコニコした非常にまめ、

一見亭主関白だけど、奥様の英子さんをいつも尊重し、生涯で最高の

ガールフレンドというような素敵なおじいさまですが、

心の中には、大きな大きな思いを持って意識して人生を作っていたのでは・・

と思いました。

 

 東大では、建築家の丹下健三やアントニン・レーモンドに師事した後、

日本住宅公団の創設期の中心メンバーとして、
激動の戦後日本の住宅を作れる立場にまでなった。

自分の人生を創造し、夢を実現させようと思っていたのだと思います。

 

 しかし、会社に就職して、自分の思い通りにならないことがあることを

知ったのではないでしょうか。

日本のニュータウンの計画責任者という立場になることができながら、

自分の理想とする街づくりを実現させることができなかった。

どれだけ大きな挫折を味わったかと思います。

 

 ニュータウンの建設に関わってきた公団のメンバーは、皆都会に住み、

誰一人としてニュータウンに住む人はいなかった。

 しかし、修一さんは、自分が手がけたのにそこに住まないのは偽善者だと、

作ったものの責任として、高蔵寺ニュータウンに入居したそうです。

 

 映画の中で、高蔵寺ニュータウン時代の同僚のインタビューがありますが、

2週間も無断で会社を休み、突然設計図を持って会社に来たこともあったと

言っています。

 東大卒業で、実力もあるからこそ、それが認められたのだと思いますが、

当時のしかも日本住宅公団というような会社で、そのように振る舞った

ということは、どこかで、疑問を持ち、自らエリートコースを降りることを

選択したのだと思います。

 

 そして今度は違うアプローチで、自分の夢を実現させようとしてきたのでは

ないかと思うのです。

 

 経済成長からバブルの時代、バブルの崩壊、・・そして今

時代が激変していく中、津端さんは自分の信念を貫き、50年かけて、

コツコツコツコツと、自分の理想とする生活を積み上げてきた。

 

 何のために?

 

   修一さんは「次の世代に豊かさを伝えたい。」とおっしゃっていたそうです。

 

 きっと、孫やひ孫、新しい時代を作っていく人たちに、こういう選択肢も

あるよ。ということを、見せるためにだと思います。

 

 そこには、これっぽっちの押し付けもありません。

 

 津端修一さんが亡くなる直前に、佐賀県の伊万里の精神病院から

新しく作る病院の設計のことで、相談があったそうです。

 その関係者が津端さんの元を訪れたとき、すぐに、

必要な道具を取り出し、話を始められたそうです。

津端さんは、いつでもできるよう準備を整えているようだったそうです。

 そして謝礼は一切いらないから、気軽に相談してくださいというお手紙と

数枚の手書きの設計図を書いた後に亡くなられました。

 

 昨年3月に亡くなった前理事長の飯島さんと重なりました・・

 

 私は2011年3月11日の約4ヶ月前から、テネモス国際環境研究会の理事になり

飯島さんの元で活動してきました。

ホームページも何もない状況、どうしたらよいか考えながら

模索していたのですが、地震が発生し、これは早く出さないといけないと、

3日後には財団のホームページを作り、

テネモスミーティングという勉強会を企画しました。

すると興味を持って来てくださる方がだんだんと増えてきて

講演の依頼や様々な相談がくるようになりました。

そして講演や除染のために何度も一緒に福島や東北地方を訪れました。

講演で飯島さんは、誰もが手に入るものを使って、家庭でできる対策として

焼き塩やペットボトルで作る空気活性機の作り方を教えていました。

その時、活動に専念するため、飯島さんは透析をやめました。

(結局4ヶ月やめて、転んで大腿骨を折ったことで

透析を再開することになりましたが・・)

本当に命がけだったのです。

 飯島さんは、今、誰でもできることを教えていました。

そして実現することはありませんでしたが、声がかかったら

すぐできるよう、日本国内外の仲間に声をかけ、

除染に必要な資材が手に入るよう、準備していました。

(いろいろと話があり、実際にこちらの費用負担でやってみせると

言っているのに、結局、汚染土壌は国のものだからから

勝手にできないとか、前例がないからだめだとか言われ実現しませんでした。)

 

 飯島さんも津端修一さんも、もうこの世にはいませんが、言葉として、形として

残してくれたものがあります。

 私はわずか6年弱ですが、その背中、生き様を見てきた者として、

その言葉の意味を深く追求し、時代にあった伝え方で、

先人の思いを、つなげていきたいと思っています。

 

 みんながたった1つの自然の法則を理解し、協力しあったら、

どんな問題でも解決できると思います。

 

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